うたごえ新聞掲載記事・2006年

北九州関係の掲載記事を転記します。
 (うたごえ新聞社了解済)

2006年12月4日
これからも
美濃部恒子

 うた・うた・うたづけの感動いっぱい!! (タイトル通りの)あったか祭典。 大成功で西江さん(6月急逝の前運営委員長)も天国で喜んでおられることでしょう。 力強い歌声に胸打たれ,やさしい歌声は心にしみました・・・うたごえの力はスゴイ!! ・・・ 元気をいっぱいもらい,これからも練習を頑張って(平和を守る)歌声を響かせていきたい。
(北九州市)

2006年11月6日
「悪魔の飽食」福井へ
美濃部恒子

 九州のうたごえ祭典(9月23,24日)で,作曲者池辺晋一郎先生の指揮で「悪魔の飽食」を歌った感動・・・先生の「この歌を歌わなくてもてもよい世の中にせねば」と言われたことが胸に響きました。 しかし現実は安倍新政権で今まで以上に危険になっています。 九州で得たエネルギーを”ふくい・北陸祭典”につなぎます。
(北九州市)

2006年10月2日
もうすぐふくい・北陸祭典
美濃部恒子

 9月10日,福岡県のうたごえフェスタが行われ,27団体による合唱発表交流会はなんと3団体が1位(新日鉄八幡うたう会,九州青年合唱団,北九州青い空合唱団)。 わが青い空合唱団も日本のうたごえ合唱発表会出場のキップを手にすることができ嬉しいです。 合唱曲「桑ばたけ」「希望の歌」は九州のうたごえ祭典(9月末鹿児島)でも歌います。
 9/11号”すべてのいのち輝いて音楽祭inかつしか”の記事−葛飾はわずか2年ですが居住した地ですし,星野村も縁ある地なので身近に感じ歌って平和を願い伝えるころの大切さをこの記事からもフツフツと感じることでした。 歌う仲間がたくさんいて,感動のステージがあちらこちらにあることも嬉しいですね。 さあ!!もうすぐ日本のうたごえ祭典!! 期待が広がっているところです。
(北九州青い空合唱団)

2006年7月24日号
御供養は祭典参加
美濃部恒子

 西江さんへの追悼メッセージ(7/3号)を読みながら涙が止まりませんでした。 「涙は出るが歩み止めないぞ」といわれる山崎さん(ふくい・北陸祭典企画委員長)のように福井・北陸の皆様は同じ思いで遺志を受け継ぎ,祭典成功のため奮闘下さることと思います。 何もできない私ですが祭典に参加することで,西江さんへの御供養になればと思っています。
(北九州市)

2006年4月24日号
私たちも「悪魔の飽食」
美濃部恒子

 4/10号で“再び「悪魔」をつくらない”ととりくむ9・3静岡公演記事。 この曲を私達も9・23〜24九州のうたごえ祭典(鹿児島)全体合唱で,池辺先生の指揮で歌う。 実行委員長・矢部先生の記事を読んで七三一部隊は「過去」のことではなく,ミドリ十字社を作ったのは七三一部隊で人体実験に関わった軍医だと知り,大きなショックでした。 うたごえ新聞を読んで「悪魔の飽食」の重さを一層,痛感しました。 私たちも公演に向けてがんばりたいと思います。
(北九州市)

2006年3月13日号
グループホームで歌のふれあい
小林千里

 私の所属する民商の会員さんが私の会社近くにグループホームを開設されると聞き,入所者の少ない時期は大変だろうと「歌ってみましょうか」と声をかけてみた。 早速,私のつたないピアノ(左手はドミソ和音くらい)で始めることにした。
 最初は高校の先生だったというお1人だけ。 その後,毎月入所者が増え,時には絵本読み,紙芝居も試みたが,人数が増えると1人では大変。 4ヶ月後,新日鉄八幡うたう会の岡崎健さんにアコーディオンを依頼し,“おおかわうたう会”の仲間が時々,応援に駆けつけてくれるようになった。 私たちが行くのを「一番の楽しみ」と歓待されるようになり,グループホームのみなさんと触れ合えることで,日頃の仕事も頑張れる活力になっていると思う。
 うたごえと関わって50年近くになるが,本気の期間は少ない。 6年前,門司に北九州保健生協の診療所ができたことから,所内に“おおかわうたう会”を作り,デイケアで歌ったりして,うたごえの見方が随分変わった。 多くの人と楽しみ,心を通じ合うことのできるのは,私には“うた”が一番と思っている昨今である。
(おおかわうたう会)


2006年3月13日号
わが団 今この曲「青い空は」
堤龍輔

 わが団に「今この曲」といわれるならば,「青い空は」(小森香子詞/大西進曲)でしょうか・ 1961年1月“北九(ほっきゅう)青年合唱団”結成がわが合唱団の始まりです。 その後,“北九州青い空合唱団”と改名し,暗い色イメージの工業都市北九州を「明るいうたごえで青い空の広がる街にしよう」と,現在に到っています。 そして,団の名前の由来でもあるこの曲をテーマソングのように歌い継いでいます。
 昨年,団内に“青い空・九条の会”も出来て,毎月1回小倉駅前で【憲法九条を守ろう】の街頭宣伝活動を続けていますが,まず最初に「青い空は」を歌って気持ちを高めています。 60年前の8月9日,小倉に落とすはずの原爆が,前日の八幡大空襲で煙っていて視界が悪く,長崎に変更された… この歴史の事実を私たち北九州市に住むものは忘れられません。 歌うたびに♪青い空は青いままで,子どもらに伝えたい− という言葉にこめられた平和を守る決意を新たにします。
 きたる6月11日(日)に団創立45周年の第21回演奏会。 オープニング曲に混声四部合唱「青い空は」を選びました。 会場一杯に,そして未来(あした)に青い空を広げていきたいとのねがいをこめて歌います。
(北九州青い空合唱団)


2006年2月20日
”私も「平和の旅」へ”と友
小林貴子(あつこ)

 戦後60年・憲法の心をうたう平和コンサート(昨年12月18日,北九州ムーブ)で私は北九州「平和の旅へ」合唱団の1人として歌いました。 広島被爆の私は「平和の旅へ」のモデル渡辺千恵子さん(長崎被爆)には,生前何度かお目にかかり,その生き様を心から尊敬していました。 平和の語り部へと彼女を押し出したのは,お母様,被爆者仲間に加えて平和を願う人々の暖かい拍手だったと思います。
 今,被爆者の平均年齢が73歳。 まだ胸にしまったままの人も多くいます。 歌を聴いた私の友が”ケロイドの被爆者の知人が自死されたことを思い出した,自分も「平和の旅」へ出る”との感想に嬉しくて涙してしまいました。 戦争を放棄した憲法は変えてはいけません。 うたごえを響かせて平和の大切さを届けていきたいと思う年始めです。
(北九州青い空合唱団)


006年2月20日号
小倉駅前デッキから
加来浩佶

 北九州市は,市職員労働組合競輪支部350人の女性たちを,事業の赤字を理由に今年3月までに全員解雇と発表。 その期限が迫ってきた1月21日,小倉駅前デッキには,午前9時から午後3時まで班を組んでリレーする競輪支部の必死の訴えが響きました。
 私たち青い空合唱団も,11時から12時の時間帯に急きょ応援に駆けつけました。 たくさんのオレンジ色の旗がたなびく中にブルーの”うたごえは平和の力”の旗を立て,マイク宣伝の合間に2〜3曲ずつを歌いました。 雇用創出をうたう自治体による一方的解雇は理不尽で,暮らしの困窮は深刻です。
 私たちは,昨年の”メーデー歌集”から「そんな町を」「しあわせの歌」「人間の歌」などを歌いながら,エールを送りました。
(北九州青い空合唱団)


2006年1月23日号
歌を口ずさむ若者も
渡辺聿子

 毎日雪がちらつく寒い日が続いた北九州も,1月8日はまるで新成人の門出を祝うような晴天。 青空に恵まれて,成人祭の会場スペースワールドの周辺は,朝9時過ぎから華やかな着物姿やスーツ姿の若者であふれました。
 私たち“青い空・九条の会"に新日鉄八幡うたう会のメンバーも加わり10数名になったうたごえ宣伝隊が,アコーデオンとギターの伴奏者を中心に「翼をください」から歌い始めたころ,その周辺には新日本婦人の会,北九州憲法ネットなどの人たちも集まってきて,のぼりやチラシ配布署名集めの数が膨らんでにぎやかになりました。
 「新成人のみなさんおめでとうございます」。
 マイクの声が響き,憲法九条を読み上げ,新成人の人たちの心に届けとばかりに「青い空は」「折り鶴」「ヒロシマの有る国で」と次々と憲法平和歌集「RIBBON」を片手に歌いました。 そのうち,向こう側で署名やアンケートをとっていた民主青年同盟の青年たちも集まってきてマイクを握り,若い人らしく「風になりたい」「島人ぬ宝」「涙そうそう」などを歌って盛り上がりました。
 新成人のなかにも,一緒に写真に写ってくれたり,口ずさみながら通ったり,署名に応じてくれる若者もいて励まされました。
(北九州青い空合唱団)


2006年1月23日号
「母さんの樹」に通ず
美濃部恒子

 「歌う」は「訴ふ」といわれる近藤明子さん,26年目の「母さんの樹」に燃えた新潟を読んでも,近藤さんのいわれることに共感しました。
(北九州市)


2006年1月16日号
広島〜北九州2往復
江口道子

 ひろしま祭典が終わって,はや2カ月。 あの時,私は北九州から広島に通ったのだった。 第1日目,満を持して合唱発表会に参加。 2日目は地元で用事。 その夜発熱。 しかし3日目の朝,飛び起きて広島に向かっていた。 熱も何のその,8人のすばらしい指揮者の元に歌えるよろこびを捨ててなるものかの一心。 そこで歌ったことは一生忘れない。
(北九州)