平 和 の 風  
北九州「平和の旅へ」合唱団・ニュース8号 (2005年9月25日)

第8回練習,福岡「平和の旅へ」合唱団と合同練習 52名の参加でした
 北九州「平和の旅へ」合唱団の第8回練習が,小倉南生涯学習センター音楽室で9月4日(日)に行われました。 福岡「平和の旅へ」合唱団と合同練習で,福岡からは7名の参加,合計52名で練習しました。 団員が2名増え,現在79名。 前回に続き,朗読の佐久間さんにも参加していただき,通し練習を行いました。 参加者は,指揮の森岡先生,ピアノの小森先生,キーボードの谷脇先生,歌い手等49名の,合計52名でした。


次回の練習は,9時からです
 10月8日(土)の練習は,小倉南生涯学習センターで,午前9時からです。 いよいよ演奏の前日。 みなさんの参加をお待ちしています。


「平和の旅へ」創作を振り返って
 「平和の旅へ」の中で,「ボタンの向こうは冬」の作詞・作曲,「苦しみの日々」の作曲をされている長崎センター合唱団の松永真司さんに,創作時を振り返っていただき,北九州「平和の旅へ」合唱団に文章を寄せていただきました。


 ☆日本全国のローカル線を旅する松永真司さん (日本最東端の東根室駅にて)☆
  






 8月7日、原水禁世界大会長崎大会に参加いただいた皆さん、ありがとうございました。
「平和の旅へ」演奏終了後、海外代表の方々のスタンディングオべーションすごかったですね。 歌った私たちも感動しました。 (指揮の中沢先生が一番感動していたようでしたが)こういうステージを体験してしまうともうやめられません。 福岡のうたごえ祭典もこの意気でがんばります。
 20周年を期に創作当時を振り返ってみたいと思います。

 「平和の旅へ」は、被爆40周年の1985年、『ヒロシマの被爆の事を歌った歌はたくさんあるばってんナガサキを歌った歌は少なか。 待っとってもしょうがなか。 ナガサキの被爆の歌をナガサキで創ろうで』との呼びかけのもと詩人、作詞、作曲者経験者などが集まりました。 『じゃあ、どういうものを創ろうか?』 『とりあえず話を聞きに行こう』 『何かアドバイスがえられれば』 『だれに?』 当時より修学旅行生の語り部、日本各地、海外などに被爆の惨状を訴えていらっしゃる、渡辺千恵子さんにアポを取り、自宅を訪ねました。 (今から思えば、長崎には他にも語り部活動を行われている方、平和運動を熱心に行っている方もたくさんおられました。 他の方に話を聞きに行ったら違う歌ができていたかも) 渡辺さんは、自分の被爆体験から車いすで全国各地を巡るようになった当時の事、若者からの感想文の内容など忙しい時間を割いて1時間あまり私たちに語って下さいました。 (その時の録音は長野さんが持ってっています。 ぜひ一度聞かれて下さい) その後の会議で『もう充分凝縮されとる』 『渡辺さんの語りをそのまま曲にすれば』 多くの意見がそうでした。 長野さんがテープを起こし。 他の人は、詞、曲を考える作業を進めました。 この頃、園田鉄美さん(以後テッちゃん)が「ヒロシマ・ナガサキアピール署名」の歌「あなたの名前を」、ナガサキからの呼びかけの歌「ナガサキから」を立て続けに創作し、集会の度にこの2曲を歌い、参加者に楽譜を配り、広める運動を行っていました。 『「ナガサキから」はこの組曲のためにできたごたるもん』 『「ナガサキから」は組曲の中で生かそうで』決定です。 そして、テッちゃんが「ボタンの向こうは冬」のタイトルを持ってきました。 ちょうど「核の冬」が言われた頃でした。 『じゃあ、1週間後の会議で詞、曲を決めようで』 私は、1週間「核の冬」に関する本、文章を読み、必死でギターをかき鳴らしました。 (と思います)そして現在の 「ボタンの向こうは冬」の原型が完成。 テッちゃんは幻想的な出だしの曲を持ってきました。 「ボタンの向こうはふゆーふゆーふゆー」と広がりをもった曲でした。 さすがテッちゃん。 私にはできない曲想でした。 その後、松下さんが「苦しみの日々」の詞を書いていました。 その詞を見た瞬間「こんなもんいらん」の文字が。 『ここは音符はいらん!訴える感じでどうやろか?』 後はスムーズに曲がついていきました。 いい詞と出会えました。
 その頃、私は長崎から汽車で1時間あまりの所から通勤していて、最終は8時49分。 曲の事を話し合っていたらとても間に合うわけがありません。 週の半分は園田家にお世話になり、曲の動機、展開などを話し合い、私にとっては非常に勉強になりました。 テッちゃんのすごいとこは「平和の旅へ」の中で同じ感じの曲を創らない事です。 後半私は曲がなかなか完成できませんでしたが、いろんな案を出したり、話し合いの中で協力できたと思います。
 今でも思い出されるのは、渡辺さんが『私が亡くなっても「平和の旅へ」が私の意志を継いでいつまでも語ってくれる』と言われた言葉です。 現在「平和の旅へ」合唱団のほとんどは戦後生まれです。 被爆の語り部の風化、継承が問題になっていますが、「平和の旅へ」の合唱に参加する事が、被爆の事を考え、継承して、また、訴える事になります。 また、長崎以外の地でたくさんの人が歌ってくれる事により、新たな広がりが生まれる事でしょう。 私も福岡祭典で北九州の方と同じ舞台で歌うのを楽しみにしています。 精一杯歌いましょう。