平 和 の 風  
北九州「平和の旅へ」合唱団・ニュース7号 (2005年9月4日)

第7回練習,2名の団員が増えました
 北九州「平和の旅へ」合唱団の第7回練習が,小倉南生涯学習センター音楽室で8月21日(月・祭)に行われました。 団員が2名増え,現在78名。 練習は朗読の佐久間さんにも参加していただき,通し練習を行いました。 参加者は,指揮の森岡先生,ピアノの小森先生,キーボードの谷脇先生,歌い手等35名の,合計38名でした。


次回の練習は,福岡市です
 9月4日,25日の練習は,福岡「平和の旅へ」合唱団との合同練習です。 25日(日)は,福岡市の金光教福岡教会(福岡市中央区荒戸2-2-49/地下鉄「大濠公園」下車すぐ)で行います。


「うたは心だよ」に支えられて40数年。 さあ、「平和の旅へ」みんなで出かけよう。
 門司の「おおかわうたう会」の皆さんを引っ張って練習に参加されている,小林千里さんに「平和の旅へ」への思いを綴っていただきました。

     






 戦後60周年に「平和の旅へ」が取り上げられた事は大変意義深いことだと嬉しく思う。
 昨年、「平和への戦争展」で海老名香葉子さんの講演を聞き、東京大空襲で肉親、故郷も焼きつくされた怒り、それを訴え続けられている海老名さん。 そして「八幡大空襲も大変だったそうですね」と言われた言葉が心に強く残った。 私たちは平和を語る時広島、長崎、沖縄。 そして八幡で、北九州で暮らす者として八幡空襲を語るのは海老名さんでなく、私たちだとの思いにかられた。 「平和の旅へ」の取り組みの中で「平和を願う」人達との交流が少しでも広がることを願ってやまない。
 私は、終戦の年は遠賀郡岡垣町山田国民学校の1年生だった。 広島や長崎の原爆、沖縄の地上戦。 あんな生き死の悲惨な体験はないが、1年生の心にはそれは大変な恐ろしい毎日だった。
 母から「学校からどこかへ集団で行く(疎開)ようなことがあれば、姉妹離れ離れにならないように」と言われて学校へ送り出される。 学校につくと「空襲警報」「警戒警報」のサイレンに脅える毎日。 「空襲警報」のサイレンがなると部落毎に集まり下校となる。 木の茂った道、川の土手を走るようにして家路を急ぐ。 ある日一番小さかった私は橋の手前でついに転んでしまった。 ひざに血が出ていたが立ち止まる事も出来ず、二つ年上の姉に手をひかれ泣きながら走っていた。 途中炭坑の長屋がいくつもあり、朝鮮の人でなんと言われたか分からなかったが、手をつかみ家の中に入れられた。 B29(爆撃機)が上空を飛んでいたのだ。 飛行機が見えなくなるのを確かめてピョコンとおじぎをして脅えながら家に帰った。 他所の人より遅い私たちを心配していた母たちは無事だったことを泣きながら迎えてくれた。 何年間も、飛行機とサイレンの音に脅えていた。

 今は病院で私さえも分からぬ義母の八幡空襲の体験は、私から語り継がなければならないだろうと思い、付記することにした。
 八幡空襲の翌日、今住んでる八幡西区大畑より八幡東区猪倉まで法事で行くことになっていた。交通手段もすべてなく、子供たちをつれて猪倉まで歩く途中、馬が黒焦げになって倒れており、春の町の華頂寺の前は死体の山だったという。 八幡東区の尾倉町あたりの製鉄社宅の焼け跡から燃料のため貯えられていたコークスがあちこちでくすぶり続けていたという。

 もう40年数前になるが、「歌劇沖縄」を歌った時、子育て真っ最中で練習参加も少なく、心を痛めていた時、地元の指導をされていた双紙先生が、「うたは心だよ」とアドバイスされたことが今でも私の支えになっている。 今「平和の旅へ」を再び歌えることの喜びと森岡先生の情熱的なご指導と目標に少しでも近づけるようにがんばっていきたい。