平 和 の 風  
北九州「平和の旅へ」合唱団・ニュース6号 (2005年8月21日)

第6回練習,2名の団員が増えました
 北九州「平和の旅へ」合唱団の第6回練習が,小倉南生涯学習センター音楽室で7月18日(月・祭)に行われました。 団員が2名増え,現在75名。 参加者は,指揮の森岡先生,ピアノの松本先生,歌い手等47名の,合計49名。 これまでの最高の参加者数でした。

9月の練習は,合同練習です
 9月4日,25日の練習は,福岡「平和の旅へ」合唱団との合同練習です。 4日(日)は,小倉南生涯学習センター。 25日(日)は,福岡市の金光教福岡教会(福岡市中央区荒戸2-2-49/地下鉄「大濠公園」下車・徒歩約1分)で行います。


渡辺千恵子さんのこと ・・・ 長野靖男さん
 「平和の旅へ」の創作に関わった「合唱団ながせん」の長野靖男さんが,長崎の「平和の旅へ」合唱団のニュースに掲載した原稿を,転載させていただきました。


               




 皆さんが「平和の旅へ」をうたう時の参考になるかも知れないと考えて、私が知る限りの千恵子さんについて、書き綴ってみます。

 千恵子さんの人生は、大きく4つの時期に区分けされます。 第一期は、生まれてから被爆までの、少女時代を含む16年間。 第二期は、被爆に打ちひしがれて、死ぬことばかりを願っていた最も多感な青春期(16歳から26歳)の10年間。 第三期は、友を得て、母とともに原水爆禁止運動に歩みつづけた、1955年から1977年までの22年間。 第4期は車椅子を乗りこなして自立できるようになってから、1993年に亡くなるまでの16年間。
 私が、千恵子さんと親しくお付き合いをさせていただいたのは、1985年から亡くなるまでの8年間でしたが、千恵子さんは繊細でありながら、どこか力強く、常に前向きな方でした。 私は常に太陽を向いて真っ直ぐに咲くひまわりのイメージを持ちました。
 少女時代の千恵子さんについては、詳しいことは聞いていませんが、かけっこが得意な、元気で活発な少女だったようです。 油屋町の八坂通りに下駄屋さんの娘として生まれました。
(この下駄屋さんは現在、千恵子さんの甥御さんが引き継がれて、長崎バス新地ターミナルビルの裏手にシューズショップとして営業していますので、皆さんも買いにいってあげて下さい)
 商家の娘らしく、おくんち・精霊流し・八坂ほおずき市など、お祭り好きでした。
 軍国主義の教育を受け、ご多分にもれず千恵子さんも軍国少女となり、女学生の時、学徒動員として働いていた三菱電機の工場で被爆ということになります。 これから先は、「平和のたびへ」にあるとおりです。
 
 生来の前向きで明るい性格、負けず嫌い。 そんな千恵子さんが原爆によって打ちひしがれた、被爆からの10年間。 「いつ死のうか。 そればっかり考える日々。 全く光明のない、生きる希望さえない孤独な苦しみの10年だった。」と述懐されています。
 しかし振り返って見ますと、彼女の60数年の人生のうち、打ちひしがれた期間というのは10年です。 (もっとも、この10年というのは、思いも及ばない10年ではありますが) 後の50年余は、常に明るく前向きに生きたということを、胸にきざんで歌いたいと思うのです。 そして、母の愛の大きさと強さ。 私は、女声の皆さんが「娘よ」を歌う時に思うことがあります。千恵子さんに「大会で証言を」という話があったときに、「娘をさらし者にする気ですか」と激しく怒ったお母さんのスガさん。 でも、その気持ちを乗り越えて、娘を励まし、しっかりと抱きかかえて、世界大会の壇上に立ち、「千恵子頑張れ! 千恵子しっかり!」と心の中で叫び続けた、母の強さと優しさを、うたって欲しいと、いつも思うのです。
 
 若者たちへの期待と信頼。 千恵子さんのそれは人生に裏打ちされた、徹底したものでした。 高校生の修学旅行への語り部活動に、何度か同行させてもらったことがあります。 ホテルの玄関に着きますと、大抵の場合、先生なりクラスの代表なりが迎えに来ていて、挨拶し、車椅子を押そうとします。 すると千恵子さんは「ちょっと待ってください」とその手を押しとめて、「失礼ですが、今日来ている生徒さんの中に、先生方が困っている、とか言うような生徒さんがいらっしゃいませんか?」と質問されます。 「います」と先生が答えますと、「じゃー、その生徒さんを呼んでください」と言われます。 いかにも、というような歩き方の生徒さんが先生に連れられてやってきます。 千恵子さんは握手を交わすと、「あなた、お願いしますね」と声をかけて、車椅子を押してもらいながら、会場に拍手に迎えられて入場し、約1時間の公演をします。 終わると、くだんの生徒さんが誰も言わないのにやってきて、車椅子を押して玄関へ、タクシーに乗るまで面倒をみて、深々と頭を下げて見送るのです。
 後日、「長野さんいらっしゃいよ」と、千恵子さんから電話があり、伺いますと、「来たわよ」と笑いながら手紙を見せてくださいます。 先日の生徒さんとご両親、学校の先生方からの、感謝の手紙です。 「あれからあの子が変わりました。 素直になり、よく勉強もするようになりました・・・」 「話を聞いた若者たちは、必ずそれに応えてくれる。 未来を築くのはこの若者たち。」 千恵子さんのこの言葉は、確かな実践に裏打ちされた言葉なのです。